何故私達は、これ程までに「音楽」に惹きつけられるのでしょうか?
何故「音楽」はこんなに美しいのでしょうか?
何故「このフレーズ」はこんなに胸が締め付けられるのか?・・・
私は最近、自分が弾いたり、生徒が演奏するのを聴きながら、このいろんな「なぜ・・・?」
をよく考えます。というよりそれを考えて想像を頭に巡らせるのが大好きです。
レッスン中、なかなかその妄想から帰って来れない事があります(笑)。
音楽を志す皆さんは、どうでしょう?
難しい楽譜の音符を目で追うのに必死で、ただその音をとりあえず弾いてしまう・・というようなことはありませんか?
どんな音色で弾くべきなのか、どのようなフレーズで歌ったらいいのか等を先生にお任せする、
またはそのようなことは先生の前で自分勝手にやってはいけない・・などと思っていないですか?
確かに、楽譜に書いてあることを正確に弾くことはもちろん大事。それだけでも大変なことです。でも考えてみればその作業は殆ど「ソルフェージュ」です。その基礎的な素養としてソルフェージュの力をつけることはとても大切なことです。
しかし、聴衆が演奏家として求めるのは、その先にある何かを聴きたいがために、わざわざコンサート会場に足を運ぶのだと思います。
なぜ私がこんなことを言うかと言うと、私自身のモスクワ音楽院留学中にそれを痛感した経験があるからです。
今は亡き、レフ・ナウモフ先生のレッスンに惚れ込み、どうしても先生に教えて頂きたくて、モスクワに飛びこんだ私でしたが、そのレッスンの要求の高さに圧倒されました。
まず、レッスンでは暗譜は当たり前、暗譜で「ただ」正確に弾いたとしても先生は楽譜を閉じられてしまう。何かナウモフ先生の感性の琴線に触れる表現をしなくては、レッスンは始まらない。それが出来て初めて「何故そういう音色を選んだのか」「何故そのような解釈をするのか」
「何故この作品はこんなにも心を打たれるのか」等々、矢継ぎ早に先生との一対一の炎のような対決(=レッスン)が始まります。この「告白のような演奏」が、ネイガウスというロシアピアニズムの一大流派を受け継いだ先生の教えの真髄だったのだという気がします。要は器用なだけの薄っぺらい演奏は、先生の前では及びではなかったのです。そしてモスクワの聴衆は演奏家の語る「告白」に全身を耳にして心を委ねているのです。
これは自分にとっては強烈な体験となりました。
最初こそ「楽譜を読む」事が、難しいかもしれません。でも慣れれば推理小説を読み解くように面白くなってきます。
楽譜の中に眠っている沢山の「なぜ?」を耳で探し、自分なりの答えを見つけて行く作業は、作曲家がどんどん身近に迫ってくるようでワクワクドキドキします。それは最高の贅沢であり、我々音楽家の特権でもあります。
その最高に幸せな瞬間が、コンサートという特別な場所、時間に多勢の聴衆の方々と分かち合う事が出来れば、これは「音楽の奇跡」と言えると思います。
演奏会、コンサートとは日常では得る事が出来ない「忘れ難い生々しい体験」である・・・ということを留学中にズシッと痛感させられました。
私達は、音楽の奇跡という得難い体験を信じているからこそ、日々音楽に情熱を傾けているんだ、と思います。
皆さんも、沢山の「なぜ・・・」を自分で探してください。そして、作曲家が残した思わぬ強いメッセージ、あるいはユーモアなどに心の底から驚嘆することになると思います。
そして、是非とも奏心会のステージで大胆に披露してください!
私は、そのような演奏を期待しています。
清水 皇樹